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Hitomi Ono and the 'Wa' concept(日本語訳)

小野瞳がなでしこリーグ1部マイナビベガルタ仙台レディースに所属して、もう7年の月日が経つ。 彼女がサッカー選手としてのキャリアのスタートを切ったチームは、東京電力女子サッカー部TEPCOマリーゼ。福島に本拠地を置き、2011年の東日本大震災の影響を大きく受けたチームだ。

Hitomi Ono celebrates after scoring a goal against Jef United Ichihara

写真提供 (C) Vegalta Sendai

2011年3月11日、マグニチュード9.0の地震と津波が東日本を襲ったあの日を境に、ありとあらゆるものが変わった。1万6千もの人が尊い命を失い、今もなお見つからずにいる人の数は2千5百。12万という家屋が崩壊し、440万の人が停電を、150万の人が断水を経験した。

 この震災は数えきれないほど多くの人にとって計り知れない影響を与えた。2011年3月は小野瞳にとって、なでしこリーグの選手としてのキャリアがまさに始まった時だった。大学卒業後、福島に本拠地を置くマリーゼと契約を交わし、大きな希望を胸に新たなシーズンに挑み始めた、そんな時にあの地震は起きた。

 「(震災が起きた時、)私は福島にはいませんでした。私たちは宮崎でプレシーズン合宿中でした。練習はたしか3時からで、地震は2時45分に起きました。私たちは集合の前に地震のことを知りましたが、情報が少なく、よくわからないまま練習をしました。練習から戻ってきてテレビとラジオをつけ、情報を得ようとしました。宮崎にも携帯電話の緊急警報が鳴り響いていたので、いつもの津波とはちがうんだと感じました。」
 7年という月日が経っているにもかかわらず彼女はあの時のことを鮮明に覚えている。

「東北にはたくさんの家族や親せきがいるので、みんなと連絡を取ろうと思いましたが、電話もメールも繋がらず、どうすればいいのかわかりませんでした。そうこうするうちに夜になって、深刻な状況だということは感じましたが、誰とも連絡がとれずに途方にくれました。結局、お父さんと連絡が取れ、他の家族の無事を知らせてくれたので、ひとまずほっとしました。」

 しかし、マリーゼは活動を続けることはできなかった。福島の原子力発電所の事故のあと、マリーゼの母体である東京電力にサッカークラブを持ち続ける余裕はなかった。選手たちは家に帰ることもできなかった。

Hitomi Ono at training with her club of Mynavi Vegalta Sendai Ladies

「福島の活動拠点は立入禁止区域になっていました。私は、東京電力の東京のオフィスに配属され、ホテル住まいを経験しました。チームメートも同じ状況で、私たちは大学や他のクラブで練習をし、できることはなんでもやりました。難しい時期でしたが、いつかもう一度一緒にプレーできる日を信じて、それぞれがプレーできる場を探しました。」

 マリーゼのマネージャーは、あらゆる手を尽くし、選手たちのプレーの場を探した。2012年、マリーゼと同じく東北地方に拠点を置くベガルタ仙台(※)がレディースチームをスタートさせた。ベガルタは選手を探すと同時に元マリーゼの選手たちに門戸を開き、彼女たちを歓迎した。

「断ることもできましたが、もちろんそれはしませんでした。地元のチームでプレーできること、そして大好きな仲間ともう一度サッカーができることが何よりも大きな決め手となりました。」

 彼女がベガルタの一員になって7年。なでしこリーグの2部からスタートしたクラブは、最短で1部への道をかけあがった。

「当初、何人かの選手は数か月プレーをしておらず、うまくいくかわかりませんでした。でも、私たちみんな、心の奥底で必ず昇格するというひとつの目標を持っていました。私たちはその目標を達成し、マリーゼの一員としてはプレーすることが叶わなかったなでしこリーグ1部でプレーすることができました。」

Hitomi Ono training in front of the goal with her club of Mynavi Vegalta Sendai Ladies

 ベガルタはその時の昇格以来、1部の座を守ってはいるが、日本一への道のりはまだ遠い。それ以前に、今シーズンは降格の危機も味わう厳しいシーズンとなった。ベガルタ発足時からいる数少ない選手である彼女にとっても、今シーズンはとても厳しいシーズンだった。

「2017年の10月に膝を怪我したので、ほぼ1年プレーすることができませんでした。チームがプレシーズンのキャンプをする中、練習もできませんでした。そして、シーズンが始まってからも、ずっと復帰できずにいました。その時はとてもつらいと思いましたが、何人かのチームメイートは同じように怪我をしていて、私たちはリハ仲間としてお互いに励まし合いながら長いリハビリを続けました。」

 そして、今年の11月2日、なでしこリーグ1部残留のために絶対に落とすことのできないジェフユナイテッド市原・千葉レディース戦、彼女は決勝ゴールを決め、チームに勝利をもたらした。復帰数週間で迎えた試合だった。

 チームを降格の危機から救うヒロインとなった彼女だが、謙虚にその状況を振り返った。

「本当ならもっと早く残留を決めなければならなかったのに、それができなくて、あのようなドラマチックな展開になってしまいました。私たちは試合前、一人ひとりが自分の良さや強みを発揮すれば必ず勝てると話し合いました。それが、あのゴールにつながったのだと思います。あれはみんなでとった1点です。ゴールを決めた時、いろいろなことを思い出しましたし、みんなに喜んでもらえたのが本当に嬉しかったです。怪我をしてからずっとリハビリをしていたので、みんなが心から祝福してくれたことがとても印象に残っています。」

 彼女は今年ちょうど30歳になった。いつまで選手を続けるのか考え始める節目の歳かもしれない。彼女はとびきりの笑顔で瞳を輝かせて言った。

「怪我をした時にはたくさんの人がピッチに戻るのを待ってるよと言ってくれて、復帰したらその人たちが心から喜んでくれました。だから、私は応援してくれる人のためにまだまだサッカーを続けたいんです。私たちには今シーズン、まだ皇后杯という日本一になるチャンスが残されています。私はこのチームで絶対に日本一になりたいんです。」

 彼女のベガルタへの愛は、人一倍深いと言って良いだろう。
「私たちにもう一度プレーをする機会を与えてくれたクラブにはとても感謝しています。でも、クラブだけではなく私たちをあたたかく迎えてくれサポートしてくれる仙台の人にも恩返しがしたいんです。クラブの創立時からのメンバーの一人として、クラブがどのように始まったのか絶対に忘れないことが私の責任だと思っています。毎年新しい仲間がチームに加わる中、私はこの話をみんなにし続けなければいけないと思っています。チームがどのようにしてできたのかを知って、サッカーができることが当たり前のことではないと理解することは、みんなにとっても、大切なことだと思います。」

「日本人がとても大切にしている文化に「和」という考え方があります。それは”harmony(調和)”と英語に訳すことができるかもしれません。サッカーに置き換えて言うと、自分の利害よりもチームの調和に重きを置く考え方です。それは日本女子サッカーの成功の鍵のひとつだと私は考えています。私はそのチームメートやチームを思いやる気持ちをこれからも大切にしていきたいです。」

※2017シーズンよりタイトルパートナーシップ締結により現チーム名「マイナビベガルタ仙台レディース」として活動。